- 市ホームページ - 我孫子市
地区
- 我孫子:西部に位置し、当市内で最大のJR我孫子駅などが存在する。
- 台田:南西部に位置する。
- 若松:南西部に位置する。手賀沼に面している。
知る
暮らすも参照
歴史
手賀沼ディズニーランド構想
高度経済成長期の1959年に「手賀沼ディズニーランド構想」が持ち上がった。当時手賀沼は千葉県初の県立公園となり、東京緑地計画協議会から景観地の認定を受けていた。1959年、真鍋八千代が手賀沼観光株式会社設立発起人会を開き、「後楽園、上野動物園、船橋ヘルスセンターを合わせたような」大型の遊園地を建設することが発表された。しかし、千葉観光がすでに遊園地計画で公有水面埋立許可を得ており、この問題は川島正次郎によって手賀沼観光への権利譲渡で終わった。1959年12月には柏市、沼南村、我孫子町と手賀沼観光の間で懇談がなされ、1960年には柏市役所にて発起人代表による計画の説明が行われた。1960年4月26日、会社発足の4日後に我孫子町が「全日本観光開発株式会社設立に伴う誘致協力に関する決議」を満場一致で採択、沼南村も遊園地の誘致を受け入れた。一方で初めはもっとも乗り気であった柏市側は地元の賛成が得られずに計画から離れた。1962年8月、手賀沼公園にて遊園地の起工式を挙げ、1964年の東京オリンピック開催間に合う予定であった。1963年、「埋立地が分譲住宅地になる」・「他社への転売が計画されている」・「計画変更によって重役が交代した」という噂が出始め、同年6月、我孫子町・沼南村の首長が要望書を出した。しかし噂への言及はなされず、その後朝日土地興業(現在の三井不動産商業マネジメント)によって45%の株式が取得され、丹沢善利が社長に就任した。その後も同社に対しての疑いの目は向けられ続け、「手賀沼の汚染と会社の財務悪化」を理由に1965年8月に計画は中止された。その後公有水面埋立法と農地法に違反する可能性があるという問題が参議院で議論されるなどに至った。 |
旧石器時代から人類のいた痕跡が見つかっており、縄文時代・弥生時代の遺跡や古墳時代の古墳も数多く見つかっている。が関東地方に来ると、我孫子市もその傘下に入り、によるの中心地にもなった。現在は将門の井戸と呼ばれている井戸が残っている。関東平氏の自治の後、に入るとの家臣であったの傘下に入り、の争いも経てに入ると小豪族が乱立する状態となった。主に元公方家家臣であるや(当時は)の水運を掌握していた、さらには小金のの親戚ともいわれているなどが挙げられる。当時によって築城されによって使われていたといわれているは、現在我孫子市に残る城郭の中で最も保存されているといわれているが、当地は私有地になっており、現在では野山になっている。にはが作られ、また利根川に関連した水運が栄えたことから商業の町として発展した。また、手賀沼はが干拓しようとして失敗したことからも知られている。なお、この干拓事業の際に布佐に引っ越した食料雑貨商の井上家ですがこの邸宅はいまだに旧井上家住宅として残っており、国の登録有形文化財、我孫子市指定文化財(第14号)に指定されている。JR常磐線が開通すると、ベッドタウンとして人気になり、人口が増加した。なお、この市は1889年(明治22年)4月1日にできた我孫子町と湖北村、布佐町が1955年(昭和30年)4月29日に合併し、1970年(昭和45年)7月1日の市制施行によって市に移行したものである。
地理
千葉県の北西部で、北には利根川・古利根沼、南には手賀沼・手賀川が流れる / ある。東京都心から40キロメートル圏内であり、南東には、南西には、北には・がある。もともとは我孫子町、布佐町、湖北村に分かれていた。海抜約20メートルで、下総台地が東西方向約14キロメートル、南北方向約6キロメートル位置している。下総台地の中で見ると北の縁にあたり、谷津などの自然地形が多くみられる。南東部手賀沼沿いの部分と北の利根川沿いの部分は水田地帯となっている。ちなみに千葉県の県庁所在地であるからは約30キロメートルほど離れている。鉄道ではJR常磐線の各駅停車は一部の通勤時間帯を除いて我孫子駅が始発となっている。
- 難読地名
- 我孫子市には難読地名が数多く存在しており、市名である「我孫子」もその1つである。
- 高野山 (こうのやま)
- 岡発戸 (おかほっと)
- 下ケ戸 (さげと)
- 都部 (いちぶ)
- 中峠 (なかびょう)
- 日秀 (ひびり)
- 江蔵地 (えぞち)
- 地名の由来
- 「我孫子」という名前の由来についてだが、最古の「我孫子」と読める文書は1313(正和2)年の尼しんねん譲状で、「しもつさのくにあひこのむら」(下総国我孫子の村)との記述がみられる。つまり、鎌倉時代には「我孫子」という地名ができていたことになる。我孫子市は古墳が多数発掘されており、中には4世紀後半の古墳が存在することなどから古墳時代初期から大和朝廷との結びつきが強かったと考えられている。古代において「アヒコ」とは氏や姓であり、人名であった。そのため、「我孫子」という地名も、当地に住む人につけられた名前が定着していったものであると考えられている。詳細については我孫子市ホームページを参照。
政令指定都市構想
各種データ
- 人口
我孫子市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 我孫子市の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 我孫子市
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 |
- 文化財
番号 | 指定・登録 | 類別 | 名称 | 所在地 | 所有者または管理者 | 指定年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 県指定 | 有形文化財(考古資料) | 金塚古墳出土遺物 | 我孫子市文化財整理室 | 我孫子市 | 平成24年3月16日 | 21点 |
2 | 有形民俗文化財 | 正泉寺の血盆経信仰資料 | 我孫子市湖北台9-12-36 | 正泉寺 | 平成10年3月20日 | 一括 | |
3 | 記念物(史跡) | 水神山古墳 | 我孫子市高野山439他 | 香取神社 | 平成4年2月28日 | ||
4 | 相馬郡衙正倉跡 | 我孫子市日秀字西60-6他 | 千葉県 | 平成7年3月14日 | |||
5 | 記念物(天然記念物) | 東源寺の榧ノ木 | 我孫子市柴崎170 | 東源寺 | 昭和10年8月23日 |
- 学校
教育の節を参照。
- 市長
- 現市長 : (ほしのじゅんいちろう、2019年1月21日から4期目)
- 歴代首長
- 歴代町長
- 初代 : 染谷正治(1955年4月29日就任、1期)
- 2代 : 宮本元二(1959年1月25日就任、1期)
- 3代 : 鈴木和喜(1963年1月25日就任)
- 歴代市長
- 初代 : 鈴木和喜(1970年7月1日就任、町長時代も含め通算3期)
- 2代 : 渡辺藤正(1971年1月25日就任、4期)
- 3代 : 大井一雄(1987年1月25日就任、2期)
- 4代 : 福嶋浩彦(1995年1月25日就任、3期)
- 5代 : 星野順一郎 (2007年1月25日就任、4期)
- 歴代町長
着く
移動手段
現地での移動手段を紹介します。
電車で
先程も紹介しましたJR線での移動ができます。
自転車で
我孫子市の手賀沼沿いには、手賀沼サイクリングロードがあります。南側は自転車専用道、北側は自転車用の道とともに歩行者用の道も整備されています。手賀沼は1周すると18㎞で、ずっと平たんな道が続いています。南~東側については舗装され、でこぼこもしていない自転車専用道ですが、北側は少し道が狭くなっています。
観る
- 若松:手賀沼公園には、釣りなどを楽しむ人が毎日訪れている。
旧跡・名所等観光スポット
明治時代から大正時代に別荘地として栄えたことから現在も文化人の別荘地跡が数多く残っている。
- 別荘跡・旧邸
- 嘉納治五郎別荘跡
- 旧武者小路実篤邸
- 志賀直哉別荘跡
- 旧村川別荘(旧村川堅固別荘)
- 楚人冠公園(旧杉村楚人冠邸)
- 岡田武松邸跡(現在の近隣センターふさの風)
- 近衛文麿別荘跡(現在の近隣センターこもれび)
- 柳宗悦旧居三樹荘跡
- 文化施設
- 神社・仏閣
- 旧跡
- 自然
- 千葉県手賀沼親水広場
- 布佐河岸跡
- 利根川・古利根川の風景
- 手賀沼の風景
- 気象台記念公園
- 湖北台中央公園
- 五本松公園
- 手賀沼公園
- 利根川ゆうゆう公園
- 中峠亀田谷公園
- 宮ノ森公園
- 古利根公園「自然観察の森」
- 根戸船戸緑地
- 岡発戸市民の森
- 中里市民の森
- 布佐市民の森
- 我孫子谷津ミュージアム
- 志賀直哉邸跡
- 三樹荘に登る天神坂
- 中峠城から見た古利根沼
- 根戸城
- 手賀沼公園(ボート乗り場)
- 我孫子谷津ミュージアム
暮らす
我孫子市での暮らしを紹介します。
高齢化対策
我孫子市は、我孫子市移動等円滑化基本構想となずけた移動や施設の利用を、楽におこなうことができるよう町を改善する構想を提案しています。が発表された2006年(平成18年)12月に我孫子市移動等円滑化基本構想策定協議会なるものを設置し、2008年4月16日に基本構想が我孫子市によって決定されました。詳細は我孫子市HPをご覧ください。
教育
行政
市長
警察・消防
- 一覧
- 参照
立法
合併
政令指定都市構想の節を参照