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バリ島は狭い道が多く、年間を通して渋滞が多発しており、特に[[クタ]]、[[レギャン]]、[[スミニャック]]地区、デンパサール市内中心部、ガトット・スブロート・ティムール通り、ギャニャール県など東部へ向かう道で渋滞が発生しています。[[クタ]]と[[レギャン]]、[[スミニャック]]の道路は一方通行になりました。一方通行とは逆方向に500mの道のりの場合、歩けば15分ほどで到着しますが、車だと30分ほどかかることもあります。飛行機に乗るまでの時間には十分に余裕を持ってください。
 
=== 歴史 ===
[[File:Pura tanah lot sunset no3.jpg|thumb|300px|日没時の[[タナロット寺院]](16世紀)]]
 
'''[[ヒンドゥー教]]'''が最初にバリに導入されたのは紀元前100年のことでしたが、今日のバリ島を訪れる人には明らかなように、その独特の文化は主に隣国の[[ジャワ]]からのもので、それにバリの遠い昔のアニミズムが組み合わされています。14世紀にジャワ王の首相であったガジャマダがベドゥルでバリ人の王を破り、ジャワのマジャパヒト帝国のバリ島支配は完成されました。
 
マジャパヒト帝国の支配の結果、ジャワ文化の最初の流入が起こりました。建築、ダンス、絵画、彫刻、''ワヤン人形劇場''などにおけるその影響は今日でも明白です。
 
このジャワのヒンドゥー文化を拒絶したごく少数のバリ人は、今日では''バリ・アガ''(「原バリ人」)として知られており、今でも[[カンディダサ]]近くのテンガナンと、[[キンタマーニ]]にあるバトゥール湖の人里離れた東岸にあるトゥルニャンの村に住んでいます。
 
インドネシア群島全体でのイスラム教の台頭に伴い、ジャワ島のマジャパヒト帝国は衰退し、バリは16世紀への変わり目ごろに独立しました。ジャワの貴族たちはバリ島に難を逃れ、それによりヒンドゥー教の芸術、文学、宗教のさらに強力な流入をもたらしました。
 
その後バリは数人の''ラジャ''(王)の間で分割され、西ではイスラム教国となった[[ジャワ]]からの侵略者を撃退し、東では[[ロンボク]]へ手を伸ばしていましたが、1846年から1849年に渡る一連の血なまぐさい戦争により、島の北部は最終的にオランダの植民地主義者たちによって征服されました。バリ島南部は1906年まで征服されず、バリ島東部は1908年まで降伏しませんでした。1906年にも1908年にも、多くのバリ人は不名誉よりも死を選び、しばしばオランダの大砲や銃に向かって突撃し、集団で最後まで戦いました。
 
このような自殺的な死闘は「ププタン」と呼ばれました。ププタンのイメージが国際社会においてオランダ人の大きな汚点となったため、オランダにとってこの勝利はほろ苦いものとなりました。これを補うためか、オランダはジャワ島でのようにバリ人を強制的に「文明化」することはせず、代わりに「バリのバリ化」という政策により、バリ文化の振興を図ろうとしました。
 
1945年、バリ島は新たに独立したインドネシア共和国の一部となりました。1965年のクーデター(9月30日事件)をきっかけに、インドネシア全土に反共産主義者の暴力が広がりました。バリ島では共産党狩りの犠牲者で川が赤く染まったと言われています。死者数は約8万人と推定され、当時のバリ島の人口の約5%に相当します。
 
バリ島の歴史の中で最も新しい章は、1970年代にヒッピーやサーファーたちがバリのビーチや波を発見したことから始まり、観光業はすぐに最大の収入源となりました。2002年と2005年に起きたテロ攻撃のショックにもかかわらず、バリ島には今もなお多くの人が集まり、バリの文化は相変わらず素晴らしいものです。
 
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